Mr.Children「Documentary film」の歌詞の意味と解釈を書いて行きます。
歌詞全体の意味を解釈
まずはこの曲の歌詞全体の解釈から。
「Documentary=記憶・思い出」の「film=映像・写真」を回す。
そんな表現で、記憶の中と現実の“君”のことを主人公の“僕”目線で描いた歌詞。
“君”が笑うと泣きそうになる“僕”という構図が特徴的です。
時間は有限であること。すべてのことには終わりが来ること。でも、その一瞬、一瞬の出来事には確かな光があること。
そんなことを考えさせてくれる何度聞いても心に浸みる歌詞です。
歌詞全文(引用)
今日は何も無かった
特別なことは何も
いつもと同じ道を通って
同じドアを開けて昨日は少し笑った
その後で寂しくなった
君の笑顔にあと幾つ逢えるだろう
そんなこと ふと思って誰の目にも触れないドキュメンタリーフィルムを
今日も独り回し続ける
そこにある光のまま
きっと隠しきれない僕の心を映すだろう
君が笑うと
泣きそうな僕を希望や夢を歌った
BGMなんてなくても
幸せが微かに聞こえてくるから
そっと耳をすましてみるある時は悲しみが
多くのものを奪い去っても
次のシーンを笑って迎えるための
演出だって思えばいい枯れた花びらがテーブルを汚して
あらゆるものに「終わり」があることを
リアルに切り取ってしまうけれど
そこに紛れもない命が宿ってるから
君と見ていた
愛おしい命が誰の目にも触れないドキュメンタリーフィルムを
今日も独り回し続ける
君の笑顔を繋ぎながら
きっと隠しきれない僕の心を映すだろう
君が笑うと
愛おしくて 泣きそうな僕を<出典>Documentary film/Mr.Children 作詞:桜井和寿
歌詞の意味を深読み
ここからは歌詞を抜粋し、独自解釈の深読みをしていきます。
今日は何も無かった
特別なことは何も
いつもと同じ道を通って
同じドアを開けて
<出典>Documentary film/Mr.Children 作詞:桜井和寿
いつもと変わり映えのない一日であった今日。
同じ道、同じドアというフレーズが、「変わり映えのない」という意味合いを表すと同時に「自分の日常や毎日」を象徴しているように感じます。
後から自分の人生を振り返ったとき、この「同じ道」「同じドア」という景色がfilm(映像)として記憶に引っかかるのかもしれません。
昨日は少し笑った
その後で寂しくなった
君の笑顔にあと幾つ逢えるだろう
そんなこと ふと思って
<出典>Documentary film/Mr.Children 作詞:桜井和寿
歌い出しは「今日は」だったのに、ここで「昨日は」と時間が戻っています。
記憶というものは、時間の概念は度外視で断片的に映像を切り出すもの。という意味を含ませているのかもしれません。
主人公は、“君”の笑顔を見ることができて嬉しかったのに、次の瞬間悲しくなったと言います。
「君の笑顔にあと幾つ逢えるだろう」少しネガティブな気もしますが、そんなふうに考えてしまうこともありますよね。
大切な人ならばなおさら。いつか終わりが来ることを考えてしまう。主人公は“君”のことを、本当に大切に想っているのが伝わります。
誰の目にも触れないドキュメンタリーフィルムを
今日も独り回し続ける
そこにある光のまま
きっと隠しきれない僕の心を映すだろう
君が笑うと
泣きそうな僕を
<出典>Documentary film/Mr.Children 作詞:桜井和寿
サビの歌詞です。主人公は、自分の記憶の中の映像(Documentary film)を、一人きり頭の中でグルグルと回しています。
その映像の1カットや写真の一枚は、まるで今そこで起きた出来事かのように、鮮明な光をもって蘇らせることができる。
そうして蘇らせた“君”の笑顔の映像で、主人公はまた泣きそうになるのです。
それは先ほどの「いつか終わりが来る」ということもあると思いますが、「君が僕に向けて笑ってくれた」というシンプルな嬉しさや感動も混ざった感情ゆえだと思います。
希望や夢を歌った
BGMなんてなくても
幸せが微かに聞こえてくるから
そっと耳をすましてみる
<出典>Documentary film/Mr.Children 作詞:桜井和寿
ここで言う「幸せ」とは、“君”の声だったり、毎日の何気ない風景だったりするのでしょう。
身の周りにある幸せは、見つけようと意識すれば意外とたくさん見つかるもの。
このことを知っているかどうかは、人生を送るうえで結構大事なことな気がします。まさに僕がミスチルから学んだことの一つです。
「ひびき」などの曲にも、この表現が見受けられます。
ある時は悲しみが
多くのものを奪い去っても
次のシーンを笑って迎えるための
演出だって思えばいい
<出典>Documentary film/Mr.Children 作詞:桜井和寿
このフレーズも人生を前向きに生きるためのヒントになる言葉です。
失敗や挫折は成功のためのステップ。これは事実ではないかと僕も思います。
しかし、深い悲しみの渦中にあるときは、こんな考え方はできないもの。むしろ、薄っぺらい言葉に感じられるかもしれません。
ただ、2020年は新型コロナウイルスが世界的に流行してしまった年でした。仲のいい友人や恋人、離れて住む家族にも会いにくい状況。まさに“多くのものを奪い去られた”年と言えます。
そんな悲しい出来事も、それを乗り越えたあとのシーンを笑って迎えるための演出だと思おう。そんな桜井さんの願いやエールが含まれているように感じます。
枯れた花びらがテーブルを汚して
あらゆるものに「終わり」があることを
リアルに切り取ってしまうけれど
そこに紛れもない命が宿ってるから
君と見ていた
愛おしい命が
<出典>Documentary film/Mr.Children 作詞:桜井和寿
個人的に印象的で好きなフレーズです。
「枯れた花びら」は、かつて美しく生きていたのに終わってしまったもの。「テーブル」は日常を象徴するもの。
日常には「終わり」があることを示唆している構図になっていて、「切り取る」という言葉もfilm(写真)に通じています。
“君”といっしょに「きれいだね」と可愛がっていた花が枯れてしまった。「終わり」が来てしまったことは事実だけど、かつて二人でその花を見ていたことも事実。その記憶は決してなくならない。
そんな主人公の“強さ”が垣間見えるようなフレーズです。
誰の目にも触れないドキュメンタリーフィルムを
今日も独り回し続ける
君の笑顔を繋ぎながら
きっと隠しきれない僕の心を映すだろう
君が笑うと
愛おしくて 泣きそうな僕を
<出典>Documentary film/Mr.Children 作詞:桜井和寿
最後のサビ歌詞です。
一番のサビ歌詞とは一部言葉が異なり、また少し違った描写が感じられます。
ドキュメンタリーフィルムを一人回す主人公ですが、今度は“君”の笑顔に絞った記憶を蘇らせているのがわかります。
そして、「愛おしくて」が加わっていることにより、主人公の心の底にもう少し近づける気がします。
この「愛おしい」には、「愛している」「いつまでもそばで笑っていてほしい」「終わりが来ることが悲しい」「終わりが来ても愛している」などなど、いろんな気持ちが折り重なって込められているのでしょう。だからこそ、泣きそうになるのですね。
そんな歌い終わり。胸が熱くなって、余韻に浸ってしまいますね。
歌詞解釈からの学び
終わりの間際、自分が感動できるDocumentary filmを作るように、人生を生きたい。
濃さのある充実した人生を送りたい、という意味とは少し違って、いつもどおりの日常をしっかりと味わいながら生きたい。という感覚が近い気がします。自分で言っておいてあやふやなんですけど。
でも、絶対に日常も時間によって変化するし、節目と言える出来事もあるでしょう。
そういった自分の人生のあらゆる場面を、できるだけ鮮明に胸のfilmに焼き付けていけたら素敵だなと感じさせられた歌詞でした。
明日は何が起こるか。何が起こっても、大事に扱いたいワンシーンにしようと思います。
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ドキュメンタリーフィルム
コメント
歌詞の解釈じゃないけど、思考の変化の想像。
もう既に一部「終わってしまった」ものがあるからこそ、
これから自分の周りで終わってしまうものが色々とあるんじゃないかとリアルに感じとってしまったのだろう。
Hallelujahでは、
「もしかして地球が止まっても
人類が滅亡に向かっても そう この想いは続く」
と歌った。そのくらいに強い意志はある。
でも、もしメンバーが病気にかかったら演奏出来ない。痴呆症なんて発症しようものなら、愛を歌うことが出来なくなる。何も無い一日を繰り返せてることが、気付いて来なかったけど既に奇跡なんだと。自分に限っては大丈夫‼︎、って言い切れないんだ。
かつての記憶が鮮明にある内に、意識が問題ない内に、誰もが健康である内に、残しておきたいな、君の笑顔を。見える形で。例えば…仏像で。
帽子メガネさん、こちらでも独自の考察コメントをいただき、ありがとうございます!
作詞作曲の桜井さん個人の視点での考察ですね。
Hallelujahとの対比や、桜井さんの仏像の趣味をこのように関連づける思考の深さが素晴らしいです。